倉敷

ふたたび、三井造船の寮に入ったときは肌寒い10月位だったろうか。
ここで、一ヶ月ばかり過ごした。
このときの記憶はあまりない。
このころから自分の性格が少し変わってきた気がしていた。
八月から日曜日なしでFORTRANと向かい合っているので
脳味噌の構造が変わってきているのではと感じた。
しかし先輩であるKさんのほうは、私の数倍の仕事量を抱えていた。
今までの常識を考えると、むちゃくちゃの量であった。
世間でも、移植の仕事は新しくプログラムを作るよりもお金がかかると言われ始めていた。
瀬戸内海を向こうに望む、玉野の空は秋晴れであった。
ふもとまで歩いていくと食堂があった。
そこで注文したおでんの、しょうゆで煮込まれ芯まで茶色くなった焼き豆腐を
寂しくつまむ私たちの姿。
そんな、私たちに2ヶ月ぶりの休みが貰えることとなった。
マシンの調整のためだったろうか。
私たちは、それぞれ別行動で休むことになった。常に顔をつきあわせて仕事をしていたのだから
当然のことであった。
いよいよ休みの朝、寝坊の後、宇野駅前までやってきた。
私はバスの看板を眺めて、「倉敷ゆき」のバスを見つけた。
どこでもいいから、ふらっと出かけたい。そう思った私はその路線バスに乗った。

知らない土地の路線バス、なんて優雅な旅なんでしょう。
プログラムを組まなくていい一日、開放感は抜群であった。
バスは宇野の町を出て、玉野の山へ行くほうとは別の道を走って行く。
普通の町並み、どこにでもある住宅地であるが、その向こうにはきっと瀬戸内海があるのだ。
バスのお客は少なくなり、また、入れ替わってゆく。
やがて左手のほうが開けてくると、紺色の海面にきらきらと太陽の反射が輝くのが見えてくる。
その海面に突き出た白く大きな柱、瀬戸大橋の工事中の柱であった。

路線バスが倉敷の駅前に着く頃には3時を回っていただろうか。
少々長旅ではあったが、バスの旅は満足であった。
倉敷の町へ出た。
岡山とも玉野とも違う空気が漂っている。
歴史を感じさせる建物が並ぶところがある。私は知識に欠けるのでこの名所の名前を知らないが、
おそらく観光名所の一つなのだろう。
そして、着飾った若い青年聖女。
ここは東京で言えば、原宿のようなところだ。
私は、和紙のはがきを一枚おみやげに買った。
そして、待望の食事は、たしか・・・、みその付いた串カツのようなものだったかな?
おみやげやさんが何件か続いてあり、とても日本的で雰囲気がよく、売っていたものの記憶がないが
橙色と桃色と古ぼけた木の色に電球の暖かさの情景は思い浮かぶ。抽象的ですみません。

帰りは電車で岡山まで行き、そこからタクシーで寮まで帰った。
そして倉敷土産の和紙のハガキに「がんばってます、うんたらかんたら・・・」と書き、
会社宛としてポストに放り込んだ。
E子への片思いに胸を焦がしながら・・・

つぎ

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