二十五歳の選択

N証券のシステムの仕事は納品までこぎ着け、プロジェクトから抜けた。
そのプロジェクトの主要メンバーは後日もずっとN証券で仕事を続けていた。
五反田とも別れを告げて、渋谷の本社に戻ってきた。
私はそろそろ二十五歳になるころであった。
二十五歳は人生の節目であるということを、何年も後になって知った。

本社に戻ったところで私の片思いが修復するわけではない。
営業のIさんは仕事の打ち上げや送別会のあと、社員達をカラオケに案内した。
よく行ったお店の名前は、確か「深海魚」という名前だったろうか。
こういう機会は互いの親睦を深める数少ないチャンスである。
若手の女性社員が居た日にゃ、あんたねぇ、
といった具合で特に目が離せない行事である。
私はカラオケは苦手であったがお酒は飲めるようになっていた。
そこまでつき合っても片思いの彼女とつき合えるわけでもない。
アプローチ不足であるがシャイな私には何もできなかった。

そのころのコンピュータ業界の話題といえば、
NECから発売された「PCエンジン」と呼ばれる新しいゲーム機だった。
これはファミコンに対抗する最新型のマシンで、ファミコンより色鮮やかで、
音楽も豊かに奏でられ、速度も速いという夢のマシンだった。
これで二万円台と安い価格だったので、ファミコン独占のゲーム機市場を
脅かし始めていた。
私はPCエンジン本体とRーTYPEというゲームソフトを買って研究した。
実は買う前からPCエンジンの仕事がしたくなっていて、
当時社長だったSさんに相談を持ちかけた。
生意気盛りの極地だった私であるが、二十五歳という人生の節目は譲れなかった。
狭い会議室でSさんと私の二人きり。
窓からは宮益坂を見下ろせたその室内で、私はゲームを作りたいのだと社長に強く訴え出た。
買ったばかりのPCエンジンについて知ったかぶりをした。
これは小型で当時人気パソコンだったPC8801よりも性能が高く、
PC8801の16万円と比べても二万円と安価である。
PCエンジンこそこれからの家庭用コンピュータの分野を背負っていくマシンなのだ、
と、あること無いこと説明した。

話してみるものである。
SさんはPCエンジンのソフトの事業部、NECアベニューに後輩がいるとのことだった。
さっそく後輩とその同僚の人の二人組が会社へやってきた。
こちらで迎えるのはゲームのことは知らないSさんと、
ゲームなど作ったことのない私の二人である。
名刺を交換したものの世間話の域を脱しないままお昼となった。
所詮、興味があるだけじゃ何もならないものである。
NECアベニューの二人は早々に引き上げようとした。
Sさんは二人を咄嗟につかまえて昼飯に誘いだした。
後輩のほうは仕事があるといって逃げていったが、
もうひとりのおじさんは逃げ切れず、私たちに捕まった。
Sさんが連れていってくれたステーキハウスは、宮益坂を越えて裏手のほうにあった。
お店は地下にあり照明の薄暗いムーディーな店内、応接室にありそうなレザーのソファー。
NECのおじさんにとって万事休すであった。
私は何も話すことが無く、Sさんは一生懸命話をつないでくれた。

結局、PCエンジンの仕事は何もなく、あきらめがついただけの結果だった。
ゲームを作るには、ゲーム会社に就職するしかない。
私は潜在意識の中でそう感じていたかもしれない。

つぎ

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