納品

九月半ばを過ぎても、プログラムが完成するめどは立たなかった。
主任のYさんも私たちと一緒に作業していたので、状況を理解してくれていた。
そのことは、すぐに三井造船の東京本社のほうへ伝えられた。
夏の服装しか持ってこなかった私は、だんだん寒くなる明け方の空気を感じていた。
土日の休みもなかった私たちに久しぶりの休息が得られそうだった。
最終的な製品となるハードウェアの本体を初めて見せられた。
それはPDP−11を冷蔵庫ぐらいの大きさに凝縮した専用機だった。
そういうハードウェアを作れてしまう造船を取り巻く技術に感嘆した。
しかし中身はあのPDP−11である。
そこに何十億円もするマシンに乗っていたソフトを移植する状況の厳しさにかわりは無かった。
そのハードウェアは9月下旬には名古屋の地図会社に納品される予定であった。

下された決断は、現地にて最終的な組み込み作業という形で仕事をするということであった。
要するに私たちを機械に付けて納品してしまおうということである。
そのマシンに作業するためのプログラムをいそいで組み込むため、
玉野での作業は連日夜の11時過ぎまで行われた。
夜、他の作業者が帰ったあとVAXとPDP−11を自分の機械のように使った。
私たちと作業をともにした三井造船の青年社員のSくんは自宅からバイクで来ていた。
Sくんはバイクを何台か持っていて、とっかえひっかえ乗ってきていた。

夜の食事をどうするかは一番の問題であった。
食事するところを探して、陸地の方角へ歩いた私たちは住宅地の明かりを目指した。
そこにやっと見つけた一件のお好み焼き屋は自宅の居間を改造したようなところで、
さっきまで奥でくつろいでいたような主婦がでてきて、火力の弱い鉄板で作ったお好み焼きは
とてもまずかった。

こうして未完成のソフトウェアを組み込まれたハードウェアは名古屋に送られることになり、
私たちは一旦、東京に帰ることになった。
一日だけではあるが。

つぎ

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