第二回 葡萄色の怪我
 
モーゼルは、城下町のソビーニヨン広場の噴水にぶつかって止まった。
たちまち広場にいた旅人やバザールのおばさん達から注目を浴びた。
「大丈夫ですか?」
そういって近づいてきたのは洗濯屋のオーナー、パプリーノであった。
モーゼルは立ち上がり、タキシードのズボンについた埃を払ってこういった。
「僕はお城からきたんだ、偉いんだぞ。馬鹿にすんなよ」
「おぼっちゃん、ここではみんなが平等ですよ。誰も蔑んだりしません。
みんなあなたが怪我をしているんじゃないかと心配していたんです。
だってインド洋の椰子の実を斧で割る音がしたものですから」
「怪我?」
モーゼルは頭を押さえてみた。
その手をみると、赤い血が鈍く光っていた。
「静脈だ、こんなに汚い。出血の心配はいらないみたいだね」
「ぼっちゃん、服の前が破けかけていますよ」
「これは石畳の坂を滑走してきたからだ。
こんなの気にしていたらオリンピアの競技会だって出られない」
「ぼっちゃんはマラトンのご子息ですか?」
「僕はピアニスト、モーゼルだ」
「誰?」
「え、知らない?」
「ええ」
モーゼルは顔から火を噴くくらい怒りを覚えた。
「僕はあの頂上にある城からきたんだぞ!、ここは城下町じゃないか!」
パプリーノはモーゼルの口をとっさに押さえた。
「静かに!、ここでそんなこと口にしたら近衛兵に連れて行かれてギロチンですよ」
 
そのとき黒い長帽子の近衛兵二人が酔っぱらいの男を連れて歩いているところだった。
「やめろおぉ!、俺は酔ってないぞ!、こら!待ち伏せなんで汚い手、使いやがって」
近衛兵はモーゼルの横を通り過ぎていった。
パプリーノは寂しげに言った。
「あの男もモンテローザの裁判所へ連れて行かれて、
ギロチンにかけられるかもしれません。
それか溶けた鉛を飲まされるか、手足を縛って川に放り投げられるかもしれません」
「それはかわいそうだ!、ただ酔っぱらっていただけだろう?」
「ヴィンテージ様には逆らえません」
「お母様はそんなことしないぞ。裁判所のやつの仕業だな」
「おぼっちゃん、おとなしくなさい。ここでは旅人は口を紡ぐことです。
そして20キロ先の検問を通って、隣の王国ブルゴーニュへ行くことです。
そこでは牛肉のステーキを食べなさい。気分も落ち着きます」
「僕はシモーヌに会いに来たんだ。パンドールの音楽堂を案内してくれ」
「おぼっちゃん、目上の人には敬語を使うものです。私はこれ以上つきあえません」
そういうとパプリーノは馬車の通る大通りを横切って、路地裏へ消えていった。
「あの男、僕に説教をしたぞ。何という立派な男だ。
 もしかしたらどこかの王国の使者かもしれない」
 
モーゼルはバザールの何軒かの露店を通り過ぎて、
ベーカリーのところでロールパンを買った。
モーゼルが出した金貨に驚いた店主のおばさんは、
銅貨の入った革袋をモーゼルに全部渡すと路地裏に飛び跳ねるように消えていった。
 
「ああ、何という重い財布なんだ」
モーゼルは銅貨の入った革袋を右手で揉んでみた。
「僕はこんなにお金を持ったことがない。我が国民はリッチマンだったのか。
お母様は何という偉大な政治家なんだろう」
モーゼルは突然、銅貨の入った袋を噴水の脇に叩きつけた。
「ちがう!、私にはシモーヌが待っているのだ、お母様とは決別しなければならないのだ!」
モーゼルはロールパンをちぎるようにして囓り、噛みしめるように食べ始めた。
「うぇー、味がしねえよ!ジャムの店はないのか?」
 
つづく
 
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