転職
私は学生時代に描きためた作品を押入から引っぱり出した。
パステルや色鉛筆、鉛筆スケッチの薄い紙に描いた物は
A3のクリアファイルにまとめ、
B3以上の大きな作品とクロッキー帳は黒のビニールバックに詰め込んだ。
T社にはデザイナーとして入社希望をした。
ゲームのプログラミングの経験がないのと、
絵の仕事がしてみたいと思ったからだった。
当時のゲーム界でのデザイナーという業種は、
今ではグラフィッカー、ゲームデザイン、モデラーという業種に
別けられているものだ。
私は作品の大きな荷物を担いで、神楽坂にあるT社を訪問した。
二階の社長兼応接室に通された。
皮レザー貼りのソファーに座ると、面接となった。
副社長と他、誰と面接したのかを思い出せないが、作品は一通り見せた。
作品を見てゲームの絵と違うからやっていけるのかと問われた。
私はゲームの仕事にやる気満々だったので、強い意志は伝わったようであった。
翌日電話があって正式な採用となった。
私は25歳だったので採用年齢としてもぎりぎりだったのだ。
ゲームの仕事が出来る。夢が叶ってうれしかった。
始めて出社する日、スーツに身を包んで会社に出た。
一人ひとりのブースがパーテーションで分けられている綺麗な仕事場だった。
誰一人、スーツ姿の人がいないのも新鮮だった。
いままでの仕事とは偉い違いに喜んだ。
私はデザイナー主任と呼ばれる人に連れられていって昼の食事をした。
私はブースを一つ与えられた。
壁に囲まれて集中しやすい机。いい仕事場だった。
私の前にはPCー8801SRと呼ばれるNEC製のパソコンが置かれた。
PC−8801は家庭用のパソコンとして最も普及しており、
パソコンゲームの市場としてもトップで、夢のマシンだった。
NECはPC−8801をホビー用パソコンとして、名声と誹謗中傷をめいいっぱい受けていた。
PC−8801SRは8801シリーズの音楽機能と表示機能を強化した8ビットパソコンで
PC−8801SR対応というゲームソフトが大量に出回っていた。
他社からPC−8801SRを越える性能のマシンが続々登場していたが、
ゲームソフトの数と普及台数の多さから、市場ではPCー8801SRに押され気味であった。
T社もゲームソフトを数多く開発して、販売していた。
会社内には型番表示の無いPCー8801が何台もあった。
NECから開発会社に送られる新機種発売前のプロトタイプである。
PC−8801SRの成功はそのままPCー98シリーズ普及の大成功につながっていく。
私と同時期に入社した人にKさんとOさんとTさんがいた。
KさんとOさんとTさんはアニメーター出身で、私の以後の人生に多大な影響を与えた。
Oさんは現在慶応遊撃隊のキャラクターデザインをしている。
私とOさん、Kさん、Tさんはヴァリス2というゲームの開発スタッフになった。
私は元プログラマーの素性を隠していた。
話したら折角の絵の仕事が逃げてしまうと思ったからだ。
窓の外はまだ冬だった。
つぎ
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