No.22 涼子さんの炊きたてご飯
 
バスタブに熱いお湯を満たしカラダを浸すと体中の筋肉が緩んでいく。
僕は涼子さんが彼氏としていたであろう行為を思い描く。
が、さほどリアルな想像が出来なかった。
僕は彼氏を良く知らないからだ。
涼子さんに誘惑され、愛の深淵へ導かれる行為のほうが鮮明に想像できる。
涼子さんは流行のくびれ体型とは違った、なめらかな体つき、それがいいんだよね。
なんか…
2000年も近づいているというのにこんな想像ばかりしていいのかな。
2000年はシドニーオリンピック。
サマランチ会長がどうであれ、僕はオリンピックが好きなんだ。
のぼせる前にお湯から上がろう。
いつもより早くベッドに入るとすぐに寝入った。
 
翌日、僕は涼子さんが台所で食器を洗っている音で目を覚ました。
テーブルの上には黒い大きなバッグ。
着替えや女の子に必要な道具が入っているんだ。
台本も入っているのかな。
涼子さんはペーパードリップのコーヒーを入れ始めていた。
95℃のお湯を注がれた茶褐色の粉から抽出される
琥珀の液体が耐熱ガラス容器の底を打つ。
 
「めがねくん、珍しいね。早起き」
「おはようございます」
「今日、早く帰るからね、ワープロ教えてね」
「はい」
「炊飯器にお米セットしておいたから」
「ご飯ですか?」
「外食ばかりは体に良くないよ」
「高円寺はうまいお店が多いし、お弁当だって山盛りだし」
「うちで焚いたご飯が一番なの、おかずは冷凍食品とトマトしかないけれど
一食分には足りるから」
「栄養価としては通り沿いの中華食堂の方がいいと思いますけれど」
「めがねくんってさあ、尽くしても帰ってこないって感じだよね」
「僕が悪いんですか?」
 
涼子さんはコーヒーをカップに注ぐと僕の前に置いてくれる。
 
「これで目を覚まして」
「は、ありがとうございます」
 
涼子さんは鍋に瞬間湯沸かし器のお湯を注ぐ。
ぬるま湯を入れた鍋を火にかけてから、
冷蔵庫からだし入り味噌とふえるワカメを取り出す。
おたまとさいばしを使って鍋のお湯に味噌をとき始める涼子さん。
 
「なにか作るのであれば自分がやります、
 涼子さんは仕事に出かけるんでしょう?」
「とかいって何も作らないんだよね、めがねくんはさ」
 
味噌汁の香りが漂う。
この家庭的な空気は引っ越してきてから初めてかもね。
 
「出来たよ、簡単だね、
 ほんじゃま私は青空の下へ出かけるからね」
 
僕はテラス側のサッシの表を見た。
ああ、雲間から青空がのぞいている。
 
僕が振り返ると、涼子さんは鼻先20センチのところに近づいている。
 
「必ず帰るから、待っていてね」
「はい…」
 
涼子さんはさらに顔を近づけ、体温を感じさせてくれる。
涼子さんの唇が僕の唇と触れた。
僕は感激よりも驚きのほうが先だって、感覚が麻痺してしまった。
もったいない。
しかも僕の唇は驚きのあまり、言ってはならない言葉を発した。
 
「じょ、女優の練習ですね…」
 
その瞬間、涼子さんの表情はこわばり、怯えた少女のようにも見えた。
ほんの一瞬ではあったけれど。
 
つづく
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